日本の麺食文化の歴史をたどればそうめんに至り、そうめんの歴史をたどれば、奈良県桜井市(三輪地方)で生まれた手延べそうめんに至ります。
いまから千三百余年を遡る昔のこと。日本最古の神社、三輪山の大神神社で、ご神孫・大田田根子の子孫で八二七年に三輪族の氏上にも任ぜられた狭井久佐の次男穀主朝臣が飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願したところ、神の啓示を賜りました。
その後、三輪地方ではお米や農作物の生産の他、寒い冬の時期を利用して、たくさんの家々で、そうめんを家内製造をしていました。
小麦を植え、その実りを水車お石臼で粉を挽き、山から流れてくるきれいな水を利用して、こね延ばして糸状にしたものが、そうめんの起源と伝えられています。
作られた乾物は保存食とされ、うどんくらいの太さがあったようです。
この地方で作られていた三輪そうめんがどのようにして、日本各地へと広まっていったのでしょうか。
三輪地方は、当時からお伊勢参りが頻繁に行われていました。
各地域からお伊勢さんにお参り(檜原神社(元伊勢神社:現伊勢神宮の前身)~長谷寺がお伊勢に行くルート)に来た方たちが、各家々に白いものが乾されていて、初めて見る風景に『これは何ですか?』とたずねたところ、それが乾してあったそうめんだったそうです。
山からの風にあおられて、たなびくおそうめんがとても美しく、その風景はまるでお姫さまがお琴を弾いて、そうめんが弦のように音を奏でてているようとのことでした。
その後もお伊勢参りに訪れた人々を魅了したそうめんは、その手延べの製法も地域の人たちから伝えられていきました。その製法をお伊勢参りから各地方へ持ち帰った人たちが、作りはじめたそうです。
代表的なものとしては、兵庫県(揖保乃糸)、香川県(小豆島素麺)、長崎県(島原素麺)、大矢知素麵、かも川素麺、稲庭うどん、半田素麺、五色素麺など西日本から北まで各地へと伝わり、その土地土地に風土にあったそうめんに発展していき、日本の伝統食へなっていきました。
また、昔のそうめん製造は当然、全ての工程を手作業で行っており、それは大変な御苦労(小麦の団子踏みに3~4時間かかるなど)があったようです。
今では、製造に機械化が進んでいますが、祖先の思いを受け継ぎながら、1本1本のそうめんを大切に作らせていただいております。
江戸時代の「日本山海名物図鑑」にも『三輪素麺は日本一』と絶賛されています |
毎年2月5日にはその年の素麺相場をご神前で占う神事『卜定祭(ぼくじょうさい)』が執り行われます。その結果は今でも三輪素麺の初取引の参考にされています。
夏の終わりには、年中行事を締めくくる感謝祭も境内で行われ、一年の営みを無事に過ごすことができた喜びを「そうめん踊り」に表わし、ご神前へ奉納されます。
もともと素麺は索餅(サクベイ)と言われ、宮中において儀式や饗宴に珍重されていたことは、平安時代以降の公卿の日記や女官たちの手記によって知られており、元日の宴会にも饗せられていました。
室町時代には女官たちが素麺のことを「おぞろ」と呼び、七夕の行事に素麺が饗せられていました。今も由緒ある門跡寺院等では「おぞろ」と呼ぶことがあります。「おぞろ」は素麺を一本の箸で掬い取り、折りたたむように重ねるのが作法です。